1880年
明治13年
小林工業株式会社は明治13年に、新潟県の鍛冶職人の子、小林与作が創業しました。与作が「よーさく」、通称 ”要作”と呼ばれるようになり、【要】が弊社の社章となっています。腕のいい働きものだったようで、上毛倉庫、前橋測候所、中川小学校などの建設に従事、明治31年前橋市に大工職組合が結成されるや世話取締役になりました。その後、増淵いわと結婚したが子供ができず、妻いわの妹であるさくの二男武四郎を養子として迎えました。武四郎は後年、小林工業を県内有数の建設企業に育てあげます。
1905年
明治38年
与作の建築業は十数人の職人を使う規模となっていましたが、武四郎が15歳の明治38年、57歳で病没してしまいました。武四郎は事業を継ぐため東京で修業することになり、神田の清水組棟梁斎藤平吉方へ弟子入り。昼は仕事で、神田から深川木場の清水組の工作場まで、雨の日も雪の日も歩いて3年間通います。夜は神田錦町の東京工科学校の予科で勉強。同校建築科を卒業するもすぐに徴兵されます。この間、実母と義母が相ついで他界してしまいました。
無事兵役を終えて除隊。今度は東京深川の請負業西村組の西村常吉方に就職し、多くの公共事業に関わります。東京・淀橋の専売局の大きな工事では現場責任者となり、”ネズミ”とニックネームをつけられるほど働きました。この間、五十幡たけと結婚。
1918年
大正7年
大正7年、27歳で帰郷。義父の跡目を継ぎ、土木建築請負業【要】小林組を創業しました。当時、前橋市の事業家として実力のあった勝山織物社長 勝山益太郎らに信用され、勝山織物工場、上毛倉庫、伊香保福一旅館、関東モータースなどの大きな建設を手がけました。関東大震災には群馬県第一次応召団副団長として上京。被災地の応急工事に活躍しました。
大正14年、前橋大工職組合長、県建築業組合副組合長になります。軍隊関係や埼玉エリアの仕事まで受注するなど、事業は順調に発展。製材所を開設するなど規模も拡大しました。昭和4年には商工会議所議員に当選します。しかしその頃から、日本は中国大陸での戦争にのめりこんでゆきます。
1940年
昭和15年
昭和15年、県内では小林組と高崎市の井上工業の2社のみが軍建協力会員に指定され、軍関係の受注を施工します。太平洋戦争中の19年には企業整備令により前橋土建工業㈱を設立。武四郎は社長に就任しますが、20年8月の前橋大空襲には事務所をはじめ居宅、製材工業など一切を焼失することとなります。そして終戦。武四郎は前橋市の戦災復興に大忙し。前橋土建工業をそのまま引継ぎ経営する一方、前橋木工(株)を設立し社長となります。宇都宮営業所開設、土木部を設け道路舗装工事開始。前橋市野中町に総合作業場と資材置場も新設しました。
1966年
昭和41年
昭和41年、前橋市表町に現社屋を建設。社名を小林工業㈱に改めます。昭和46年、長女源子の女婿小林秀雄を社長に昇格させて自らは会長となりました。こうして、社業と公職に全力を傾注してきた武四郎は昭和49年、83歳の長寿を全うして他界。生前、前橋商工会議所副会頭、市消防団長、同消防長、群馬建設業協会長、県宅地建物取引業協会長などの役職を歴任。藍綬、紺綬各褒章受章、正六位を贈られるなど多くの受章、受賞歴があります。
源子と結婚した婿養子小林秀雄は山口県出身。浅沼組での業務経験を経て昭和21年に現小林工業に入社。小林工業社長、小林ハウジング社長を勤め義父武四郎のよき協力者であり片腕として社業発展に尽くしましたが、惜しくも58年春67歳で逝去。生前、群馬建築士会副会長、前橋消防団長、群馬建設業協会理事、前橋市史編さん委員などを歴任、また全国建設業協会長表彰、県功労者表彰など多くの受章があります。
小林工業会長小林健吉は武四郎、たけのニ女政子と結婚している女婿。大正6年生まれの静岡県出身。昭和20年に現小林工業に入社。監査役、常務、専務、副社長を経て58年会長になります。この間義父、義兄と協力して社業のため大いに尽くしました。
現在・そして未来へ
小林工業の社是は<誠実>。それはお客様に喜ばれる仕事をし、地域とのつながりを大切にすること。誠実な仕事で築いた伝統を守り、これからも着実な社業の伸展を目ざしていきます。